1800年代には人口が百万に達し(※)、世界最大級の都市といわれた江戸。 そこでは300年余の間に生活のあらゆる部分が独自の発展を遂げ、明治、大正、昭和を経て現在に受け継がれたものも少なくありません。今回は、創業160年を数える老舗寿司店のご主人に、今も息づく江戸の庶民文化について伺います。 ※当時行なわれた町人対象の人口調査に、記録のない武家や公家などの推計を加えたもの 「小粋」を尊ぶ江戸の暮らし 「小粋」、辞書を引くと、なんとなく気が利いていたり、しゃれていることを指す言葉だと記されています。小粋の小は一歩下がった謙虚な表現で、これみよがしではなく、さりげなく漂う洗練を小粋と呼んできたわけですね。 こういった感性を大切にしたのが江戸の人々で、それは明治維新を経て東京となった今も息づいています。東京湾に面し、運河が走る港区の芝浦界隈もそのひとつ。多摩川など多くの川が流れ込む豊饒な海は、良質な魚介を産し、それは江戸前の由来にもなりました。 この地に徳川幕府の時代、安政から160年続く寿司店があります。 現当主で五代目という「おかめ寿司」は、江戸前の伝統を守る老舗。店主でありながら、同じく江戸庶民に愛された「江戸前の小物釣り」や「落語」も愛する長谷文彦さんは、小粋な暮らしを平成の世に実践する現役の江戸っ子です。今回は、今も残る江戸の嗜みや愉しみを伺いました。 切って、握る…シンプルだからこその奥深さ おかめ寿司の創業は安政2年(1856年)、徳川幕府が終焉に向かう時代でした。 「江戸時代、ここには漁港と河岸がありましてね。この先の東禅寺にイギリスの公使館ができて、ウチの初代が魚介を納めるようになりました。その頃、巷では“イギリス人が娘の生き血を呑んでる”なんてウワサが広がってたんです。おそらく、それはワインだったんでしょうねぇ(笑)。そんなわけで、飯炊きに若い娘を出入りさせるなんておっかない! というわけで27歳(当時じゃこれで大年増といわれたそうです)だった初代の女将さんが選ばれて、そこで初代と出会い夫婦になったんです。で、その後独立して寿司屋を始めたというあんばいです。」 明治維新前夜、激動の時代に歩みを始めたおかめ寿司ですが、寿司はシンプルだからこそ奥が深いと言います。 「塩や酢でしめたりしますが、結局は切って、握るだけの仕事なんです。でも、切り方によって、同じ魚でもさっぱり感じたり、そうでなかったりするんです。包丁で魚のよさを引き出せるんですよ」 昨今、ウニやイクラの軍艦巻きなど、かつては江戸前寿司になかったものも出すようになりましたが、160年間変わることのない伝統もあるとか…。 「アジ、サバ、小肌の締め方ですね。塩引きだけで旨みを出すっていうのもこだわりがあって。夏場のスズキだってちょっとクセがありますが、塩をやって、そのあとで洗うとクセが抑えられて、旨みが出てきます。寿司は男、それも職人も多かった江戸の街で、気が短くて味にうるさい連中が育てた文化ですよね。だから昔の寿司は大きかったんです。祖父の話では、今の三倍くらい。仕事帰りとかの食べ物ですからそうなったのだと思います」 時代と共に、客層もその好みも変化します。今ではトリュフを使った創作寿司を出すような店もあるほど。伝統は革新の積み重ねと言いますが、寿司の大きさだけでなく、おかめ鮨も、世の中の動きにアンテナを張って、新たな素材や味にも可能性を探ります。 「うちもカリフォルニアロールを出せなんて言われて最初は面食らいましたが、最近では、カウンター8席全部外国の方なんてこともありますからね。やっぱりそこは柔軟に対応するということも必要なのかなと思いましたよ。でないと絶滅した恐竜みたいになっちゃう…。」と、長谷さん。老舗ののれんを守る努力も忘れません。 江戸の人々が愛した小物釣りの深淵 運河や水路が縦横に走る江戸の街は「東洋のベニス」と讃えられたと言います。そこではフナやタナゴ、ハゼなどの釣りが楽しまれ、武士や町人の憩いの場となっていました。浮世絵にも釣りを楽しむ人々が多く描かれ、女性の釣り姿も目につきます。長谷さんが長年愛する江戸前の小物釣りについて伺ってみました。 「大名が楽しんだというタナゴ釣りなど小物釣り文化は現代にも受け継がれてきました。釣り糸は生娘の黒髪に限る…。なんて話もあって、私も女房の髪で真似したもんですよ(笑)。旦那衆も“ちょっと組合の寄り合いに…”とか言って、女将さんに内緒で釣りに行ってたんですね。そんな時、タナゴとかの小継(こつぎ)の竿は都合がいいんです。胸の内ポケットに隠せるから、仕事の合間にちょいと1時間って…。」 江戸前の釣道具は、指物(さしもの・板を指しあわえて作られた家具や器具の総称)や漆の高い技術がふんだんに盛り込まれつつも、これ見よがしな華美に走らない江戸の感性が漂っています。コンパクトでありながら、求められる機能は満たされていました。 「享保の倹約令(第8代将軍徳川吉宗による幕政改革)の影響かもしれませんが、表地より裏地に凝るなんてのが粋とされていました。でも、やろうと思えば絢爛豪華にもできたと思うんです。そうはせずに、しかし凝る所には凝る…。釣具で言えば1本の篠竹を切ったっていいのに、節が詰まってる竹を捜したり、それぞれの部分に合った竹を吟味して継竿にしたのは、他人より粋で優れた道具がほしい釣り師と、それに応えようとする職人達のいい関係があったからでしょうね。釣り師はパトロン的な存在で、若い職人を育てようとする……呉服屋の旦那衆とか日銭で金回りのいい釣り師は、見込みのある若い船頭がいると、何人かで金を出し合って船を1艘造ってやるんです。でも、客としてきちんと金を払って乗り、恩着せがましいことは一切言わない。そんな粋なことをしてたんです。」 見栄と我慢と意地っ張り…人情あふれる落語の愉しみ 落語も江戸っ子の楽しみでした。明治大学の落語研究会であの三宅裕司さんの後輩である長谷さんにとって、この小粋な芸能も幼い頃から生活の一部だったといいます。 「先々代が、和服着て小唄、端唄、常磐津、踊りを嗜み、歌舞伎の大向こうでした。先代の勘三郎さんが麻雀仲間でよく来てましたよ。出前の帰りに、芝居をひと幕見てくるような人でした。ウチは、仕事が休みの忌み日ってのがあって、先々代と墓参りに行くんですけど、帰りに上野でとんかつ食って、鈴本演芸場寄って落語聞いたり、浅草公会堂行ったり…。そんな風に落語と接していたんです。で、寄席の落語の真似を学校でやるとウケるわけですよ。こりゃ面白いなぁ…って。それで大学で落研(落語研究会)に入ったんです。」 落語は庶民の娯楽であると同時に生活の鏡でもありました。 「江戸の落語に出てくる気風のよさとか、見栄と我慢と意地っ張り、やせ我慢の大人って、わたしの子供の頃は普通にいたんです。でも、昭和50年頃を境に減っていきましたね。職人仕事の工場が郊外に移転したからなんですね。」 切る、締める、握る…シンプルだからこそ、ごまかしがきかず、技術とセンスがそのまま現れる寿司の世界。小さな魚を釣る楽しみを、コンパクトな道具や釣法に昇華させていった小物釣り。そして、粋を尊び、細やかさを身上とする市民の息づかいを描き出した落語。 文化を守るという意味ではイタリアも頑固である。こと、楽しいことに対する徹底的な姿勢は、こうした江戸っ子の気質にも近いものがある。 「フィアット500で、春の小物釣りとか行ってみたいですね。小さな道具を積んで、ウインドウからの景色が違って見えると思うんだよねぇ。水郷とかにタナゴとかフナとか、お弁当作ってさらっと遊びに行ったらいいだろうなぁ」。そういって笑った長谷さん…。 寿司職人が作るお弁当。それを彩るステキな小物たち。小粒だけど、あっけらかんとした開放感が十八番の500。是非ともそんな組み合わせで、ニッポンの桜を愛でてみたいものです。