母になることも難しく、社会における発言力もない。苦しみや悲しみはなかったことにされ、傷だらけになりながらもなお声をあげながら生きる、私たち。
そんな女性たちの姿を描いた小説『夏物語』。今年、世界25ヵ国で翻訳・発行されると、米TIME誌が選ぶ2020年ベスト小説10冊、米New York Timesが選ぶ今年の100冊に選ばれるなど、世界中で絶賛の嵐が巻き起こりました。
今回、その『夏物語』の作者である川上未映子さんと、その英訳版『Breasts and Eggs』を読んで感銘を受けたイタリア人女性、ティツィアナ アランプレセ(FCA ジャパン株式会社 マーケティング本部 本部長)の対談が実現。
世界が案じる日本人女性の生きる社会とその行く末、そして、私たちが未来を少しでも良い方向に変えるためにできることについて、一緒に考えてきました。
『夏物語(英題:Breasts and Eggs)』が世界から評価されたことについて、どう感じていますか?
多様性が注目されるようになり、いわゆるマジョリティーの立場や目線から書かれたものが長い時間をかけて飽和状態になってきて、「今まで知らなかった、遠い、誰かの話をききたい」という気持ちの強まりを感じます。
そうした背景の中で「アジアの女性がどういう社会で、どういう倫理で生きているのか」に関心が高まっていて、注目をしていただけたんじゃないかと思っています。
たしかに、西欧諸国には日本文化が好きな人は多いですが、「今の日本」を知っている人は少ないですよね。イタリア人の日本に対するイメージも、まだとてもステレオタイプだと感じています。
そうなんです。イタリアでも『夏物語』に関してありがたいことに50件ほど書評が出て、全国紙の日曜版の表紙にも大々的に取り上げていただいたのですが……、驚いたのが、そのタイトルが「私たちはもう、芸者じゃない!」みたいなものだったんですね。
ほかのメディアも、芸者や富士山の写真を使っているのを見ると、まだまだ日本はこういうイメージを持たれているんだなあと衝撃を受けました(笑)
お恥ずかしい……!(笑)
いえいえ(笑)。でも、そこにリアリティを感じて興味深かったです。ほかにも、海外では「日本といえば東京」というイメージがあることを強く感じました。日本人は皆、都会的で豊かな暮らしをしていると思われていたんですね。
『夏物語』ではワーキングクラスの女性を書いていますし、社会の格差も、東京に対してのカウンターである大阪も書いています。これまでのステレオタイプなイメージとはかなり違うものばかりですよね。そのため、海外の読者の多くが「まさか日本にここまで貧困があるなんて……!」と驚いたようです。
これまでは日本でそうしたテーマの小説が書かれても、なかなか海外に輸出されなかったということでしょうか。
そうですね。国内では無数に書かれていますが、そういうものに諸外国の編集者の関心が向かなかったのでしょうね。『夏物語』があるインパクトを持って受け止められたのは、世代や立場が違うさまざまな女性の課題を描いた点も大きかったかもしれません。
フェミニズムの話もあるし、貧困問題も、シングルマザー問題も、それから何より、生殖倫理について。人がなぜ人を産むのかというフィロソフィカル(哲学的)な問いが根底にあるので、そこを起点にして、立体的に読んでもらえたんじゃないか、と思っています。
この本を読んで特に感じたのは、登場人物の女性たちのたくましさでした。彼女たちは、弱さや傷を抱えていても、エネルギーがすごくありますよね。逆に、男性はあまりパワフルに描かれていないように感じました。
そう感じていただけたのは、この小説が女性の一人称を採用して書かれていることが関係すると思います。この小説はリアリズム小説で、現代日本社会を生きる女性の登場人物の視点で男性が描かれています。なので、構造上の必然なんですよ。
この小説について、ある男性読者から「男性のことがほとんど書かれていない」と言われたことがあるのですが、それは「男性にいい役が与えられていないじゃないか」ということだと思います。気持ちはわかりますが、リアリズム小説なので、しょうがないですよね(笑)。その意味で、私はこの小説で、男性についてはしっかり書いたつもりでいます。
女性視点で描くことによって、男性社会の、女性に対する支配システムが見えるようになるのですね。
小説でも書いた通り、それぞれ生きている現実が違うんですよ。また、パートナーのいない女性が母になることは、今の日本の社会ではとても難しいことです。登場人物の紺野さんも、まさにそうした専業主婦のひとりですよね。日本の女性は、構造的に自立するのが本当に難しく設定されています。
そうした社会の中で、主人公の夏子は「出産」という道を選びますね。その選択を描いた背景には、どのような想いが込められているのでしょうか。
「子供を作るべきではない」というアンチナタリズムが日本でも周知されつつあります。「生むことは罪に近いんじゃないか?」と。それは若者たちの間で、あるリアリティを持って共有されています。それはチャイルド・フリー的な、合理性を問う観点からだけでなく、根本的に、倫理的に、そうなんじゃないかと。私自身は親になりましたが、その戸惑いや気持ちは、よく理解できます。
私には22歳の娘がいますが、彼女も「子どもは産みたくない」とよく言っています。SNSも含め、メディアでは世界のバッドニュースばかりが流れていて、若い人たちはネガティブな印象を受けています。「将来はない。なのになぜ子どもを産むの?」と。
現実的に無理だと思う若い人たちも、本当に多いです。日本で子どもを産み育てるとなると、小学校から大学まですべて公立に入れても、数千万円かかります。そうすると、「自分が今日生きていくのも大変なのに、子どもを産むことなんてできない」と思いますよね。というか、選択肢どころか、自分が親になって誰かの人生に責任をもつなんて想像することも難しい──そんな現実があると思います。
未映子さんは小説家でもありますが、日本社会で生きるひとりの女性でもありますよね。日常のどんなシーンで、女性としての生きづらさを感じますか?
今8歳の子どもがいるのですが、子どもを日本で育てることの難しさを感じます。自主性をめぐる点や同調圧力の問題など、いくつも難しさを感じますが、性に関することにも。ありとあらゆるところに、女性への性加害を娯楽と結びつけるような表現が満ちています。ヘテロセクシャルの青年男性を中心にしたコンテンツが、普通に子どもたちの生活圏に入っているんです。広告もそうだし、コンビニエンスストアもそう。
そういうことの何が問題なのか。誰の問題なのか。それを問うことにどういう意味があるのかすら、理解できないし、しようともしない。ずっと娯楽や趣味と女性の性的な表象の区別をつけずにきてそれに慣れきっているから、何が問題なのかが分からないんですよ。権利くらいに思うんでしょうね「これ以上、おれたちの花園を踏み荒らすな」みたいなね。街頭インタビューで「趣味は?」と聞かれた男性が「痴漢です」と答え、それが放映されて笑っていたような時代から、根本的に搾取している側の意識は変わっていないんです。
……(絶句)
きちんとした性教育の充実もないままに、そういう常識のなかで子どもが育つのはかなりしんどいですね。
そうした女性を抑圧する文化は、メンタルヘルスにも影響していますよね。新型コロナウイルス感染の第3波において、女性の自殺者が急増しているというニュースを見ました。
特に非正規雇用の女性の自殺者数が増えたそうです。先日も、仕事も家も失って路上生活をしていた女性が、男性に撲殺された事件がありました。このような事件が起きると必ず自己責任だという声があがりますが、違います。ほとんど社会の犠牲になったようなものです。
このような現状を変えるためには、どこから変えていけばいいのでしょう。やはり女性からアクションをするべきだと思いますか?
個人の行動はもちろんですが、私は次世代の人たちに期待する気持ちが大きいです。家庭と社会が同時に意識を変えて、関わっていくことが大切だと思います。家庭だけの努力では本当に難しい。私自身、子どもとのやりとりのなかで、ほかの色々なことと同じように、差別問題や、ジェンダーや、性についてよく話をしていますが、変わらない社会とのギャップがただ広がっていくのを実感しています。でも、やめるわけにはいかないですよね。
日本がポジティブに変化するためのヒントをもう少し一緒に探してみたいのですが……、たとえば、若いジェネレーションの意識は変化しているのでしょうか? そこにホープ(希望)はありますか?
若い世代は変わってきていますね。ただ彼らには、お金がないんですよ。言うまでもなく貧困は活動を制限しますし、あらゆる情熱をそいでいきます。
先日、様々な国の女性大使の方たちとお会いする機会を得ました。そこでみなさんから「日本はまだお金があって豊かでしょう。もっと自信を持っていい」と言っていただきました。でもそれは富裕層が貯め込んでいるだけのこと。ほとんどの若い世代は、先が見えない中でもがいています。
小説の登場人物もみんな、死に近いところにいますよね。でも彼女たちはパワーオブラブ(愛の力)のおかげでギリギリ生きることができています。これについて、未映子さんの個人的な経験はありますか?
生を続行する人と、止めてしまう人を最終的に分けるものが何なのか、それは場合によりますし、私には分かりません。でも、なぜ自分が今も生きているのかと問われれば、自分自身のおかげでもなんでもなく、単なる運だったと思っています。たまたま健康で、タフな性格だったこと。そして、母や祖母やきょうだいから、子どものときに与えられた自己肯定感のおかげだということ。
母はどんなときも、私を絶対に否定しませんでした。母は朝から夜まで必死に働き、暮らしはとても貧しかったですが、ネガティブな言葉を発せられたことが、本当に一度もないんです。口出しをされたこともないし、これは無理だとか、あなたはこうだとか、そういうことを一度も言われたことがありません。
そんな母と一緒にいると、生きているだけでいいんだな、ってことが私の当たり前になりました。これは、お金があってもなくてもできることだと思います。
素晴らしい。その愛はすべての人間が持っていて、いつ誰に対しても発揮できるチャンスがあるものですね。
そう思います。私の場合は、そうした愛を与えてくれたのがたまたま母であり祖母でしたが、子どもは親を選ぶことができません。虐待を受けている子もいれば、食べるものがない子もいる。あるいはどんなに裕福でも自尊心を傷つけられつづけている子も。地獄を生きている子どもが、必ずいるんです。
社会としては、そのサインを見逃さず、万全の対応をすること。目を光らせること。また、悩みを抱える子どもたちと個人的にお話する機会があれば、今あなたがいる世界がすべてじゃないことを伝えたいです。それを伝えることができるのは言葉の持つ力なので、私はそれをやっていきたいと思っています。
小説では、家族によるクラシックな愛だけでなく、ワイルドな愛が描かれていたのが印象的でした。
教師や友達、メンターなど、家族以外から愛を感じることができる。人以外からもです。私たちは、そういう社会を作る責任があると思っています。あらゆる意味で、家族を絶対視してほしくないですね。
なぜこういう社会になっているのかを子どもたちと一緒に考えて、助け合うこと。そして、この小説に出てくる登場人物たちのように、すべての人に機会が与えられているわけではないということを、根気強く伝えること。余裕がある人が余裕のない人を助けることは当たり前のことだと繰り返し伝えること。
それしかできないけれど、それが大切なことだと私は思っています。
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