fiat magazine ciao!

#ヒストリー

CULTURE

定番の魅力はさり気なさに〜パンダの底力「歴史とデザイン」

イタリアの日常が味わえるクルマ パスタやピッツアといったイタリアの日常食は、日本のみならず世界中でもほぼほぼ日常食の一部になっています。 毎日でも楽しめる気軽さと美味しさ、でもちょっとオシャレで楽しい。 そんなイタリアンな感覚こそが、世界で愛される理由、つまりイタリアの真骨頂といえるのではないでしょうか?   クルマにおけるイタリアの日常を存分に楽しめるのがFIATのクルマたちですが、実は最も長い期間連続して生産されている定番こそパンダなのです。   デビューから40年近くが経過し三世代目となった現行モデルも、イタリアを中心にヨーロッパの多くの国々で大活躍しています。2ドア、パーソナルカーとしてイメージが強い500に対し、パンダは家族や荷物をたっぷり載せ、狭い道も厳しい坂もグングン走る。汚れたって気にしない、どこでもいつでも活躍するまさに「日常のアシ」。 現在も年20万台近くの生産量を誇り、500とならぶFIATのアイコン車種として活躍しています。     日々の生活でもオシャレ心を忘れない、イタリア人らしいエッセンスが存分に注がれた、ある意味で「リアルなイタリア」が感じられるクルマといえます。     おそらくイタリア人でパンダに乗ったことのない人間などいないでしょうし、イタリアのレンタカー屋さんでパンダの取扱いがないところも皆無でしょう。これは、パンダが誰でも乗れる、どこへでも行ける、便利なツールとして認められた存在であるということの証。     ちなみに、レンタカー業者によると、パンダだと盗難に遭う確率も低いなどという噂もあるほど。日常の会話でも「あ、じゃあわたしのパンダで行こうか?」なんて言い方が通じるほどの存在なんです。     もちろん、便利なツールだというだけでこれほど愛されるほど世の中は甘くありません。特に、「何でもいい」と言いながら、ちっとも「何でもよくない」イタリア人にとって、定番としての眼鏡にかなう条件はなかなか厳しいと言わざるを得ません。ツールとしての使い勝手の良さ、そして、日常のパートナーとして愛せる存在、楽しめる存在たりうるか? 時代に応じた「ちょうど良さ」を追求しながら、そんなイタリア人の厳しい要求がつまったクルマこそパンダなのです。     パンダの歴史と今 初代のパンダはイタリアが世界に誇るデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ率いる「イタルデザイン社」が、FIATからの外部委託を受け開発した最初のクルマ。直線基調のシンプルだが飽きのこない、イタリアらしいデザインセンスに溢れたそのスタイルと軽妙な走りは、デビューした1980年から現代にまで続くパンダの地位を不動にした傑作といえるもの。日本でも、多くのデザイナーやギョーカイ関係者といった、オシャレな人々の間でも大変な人気を呼びました。       多少の変更こそあれ、20年以上も同じ姿を保っていた初代に代わり、2003年からは背の高い丸みを帯びたスタイルの二代目が登場。実は「Gingo(ジンゴ)」という別の名前でデビューする予定のSUV要素を持ったモデルが、パンダの二代目を襲名。         最初こそ初代との違いから、少々違和感を覚えたイタリア人でしたが、程よいサイズ感やエアコンの装備など、時代に即した使い勝手が認められ、すぐに「新定番」としての地位を築きます。   そして、2011年から現行モデルへ。         環境と燃費、安全といった性能面、室内環境の改善など、あらゆる点でリファインされたモデルへと進化を遂げたのが三代目。もちろん、パンダらしい時代時代の「ちょうど良さ」を表現しています。           日常の「アシ」であっても、角丸の四角(スクワークル)を基調にしたデザインなど、イタリアらしい遊び心にも抜かりがありません。             実用一辺倒ではなく、見る角度によって、可愛らしかったり、キリッとし表情を見せたりと、デザイン大国イタリアの名に恥じないエクステリアをもつパンダ。まさにオシャレに肩肘を張らない人にこそピッタリ。 […]

FIAT,エンブレム
CULTURE

FIAT、その歴史とエンブレムの変遷

自動車のエンブレムとその変遷には、その会社の歴史や様々な思い、当時の技術や流行の影響をうかがい知ることができます。 今回は、そんなFIATのエンブレムの変遷を皆様にご紹介します。     FIATとは1899年にイタリアのトリノという街で創立された、その名もずばり「トリノ・イタリア自動車工業」を意味するイタリア語「Fabbrica Italiana Automobile Torino」の頭文字をとったもの。     非常にストレートでシンプルな名前とお思いかもしれませんが、実はこの年の1月まで、人類は「自動車」という言葉を知りませんでした。というのも、文献上確認できる最古の「自動車(Automobile)」という表記が、アメリカのニューヨークタイムスに登場したのが1899年の1月。つまり、FIATが誕生するわずか半年前。 今で言うまさにイノベーションともいうべき、画期的な産業がイタリアに生まれた瞬間だったわけです。     今でこそ500やパンダなど、愛すべき欧州大衆車メーカーとして知られるFIATですが、当時の自動車はとびきりの高級品。FIATはれっきとした、イタリアを代表する最先端の高級車メーカーとしてその名を世界に轟かせていたのです。もちろん、現在のF1へとつながる、第一回の自動車グランプリにもFIATは参加しています。   やがて、世は大工業化時代に突入。FIATは自動車だけでなく航空機や船舶、鉄道など幅広い活躍を開始します。       さあ、そんな歴史ウンチクとともに歴代のエンブレムを見ていきましょう。                                     100年以上にもわたる歴史の中で、様々な変化を繰り返してきたFIATとそのエンブレム。   いかがでしょう? そのいずれの意匠にも、イタリアらしいデザインマインドが脈々と受け継がれています。 これぞヘリテージ。 FIATのポップさの中にあるシックさは、こうした歴史の上に成り立っているのです。 […]

CULTURE

ヴィンテージカーの祭典〜パリ・レトロモビル

ここ数年、欧州を中心にヴィンテージやヘリテージという流れに大きな注目が集まっています。ファッション、宝飾品、インテリアはもとより、自動車もその波に飲まれつつあります。   新しいものを否定するつもりはありませんが、こうした流れは、もっとロマンや楽しさ、美しさといった人間らしい、心に訴えかけるものに注目が集まっているのが原因かもしれません。     さて今回は、フランス・パリで行われたRETROMOBILE(レトロモビル)について。 レトロモビルとは、今年で43回目を迎えた欧州最大級の旧車をメインとした蚤の市。文字通り屋外でスタートした蚤の市は、折からの旧車ブームなどと相まって、もはや「蚤の市」というレベルを遥かに超え、立派なモーターショーともいえるような巨大イベントに成長しました。     ある種のアートとしての価値も見出されてきたという「ヴィンテージカー」ですが、投機対象としても人気が高まるばかりで、そうした流れの中、レトロモビルにも、かつてのような庶民然とした人たちだけでなく、いかにもお金持ちそうな方々も激増。それにあわせるかのように出展車両やブースも大変豪華になりました。   そんなレトロモビルの一つの目玉が、会場内で行われるオークション。2016年には1957年型Ferrari315/335Sが、$35,711,359(およそ38億円!)という欧州オークション史上の最高額を記録するなど、ますます世間の注目を浴びることになっています。   そんなお金持ちが集まるイベントですから、各メーカーも次第に敏感に反応するようになってきました。国際モーターショーに勝るとも劣らないレベルの素敵なブースを展開し、過去の資産やこれからのサポート、オーナーズクラブとの連携など、積極的なコミュニケーションを展開し、ブランディングの一環として活用するようになってきています。     市場価格の高騰は、カーマニアのお財布にとってはとても厳しい現実なのですが、一方でレストアにかけられる予算が激増したことによる仕上がりの品質の向上や、それによる実用性の向上。さらに、現在の気候や運転環境にも耐えられるようなアップデートなど、これまで以上に安心して旧車が楽しめるようになってきていることは喜ばしい事かもしれません。   また、メーカーたちが自身のブランディングの一環とはいえ、パーツやレストアのサポートをはじめるということは、やはりマニアにとっては嬉しいの一言。   そんな中FIAT有するFCAは、本拠地のトリノとパリで「Heritage」サービスを発表しました。これは、自身が所有するブランド(FIAT、ABARTH、ALFA ROMEO、LANCIA)がこれまでに生産したクルマに対し、レストアの支援や各種フォローやサーティフィケーション(一種の血統書発行)、そしてそれらの販売などを行うというもの。 「Passione senza tempo」 これはイタリア語で「情熱に時間は関係ない」〜つまり、情熱に際限はないという意味なのですが、クルマを愛する人たちが作るメーカーの、クルマを愛する人たちへのメッセージと決意の表れなのでしょう。   「積み上げてきた過去と歴史の上に我々は立ち、その先に未来があるんです。」 そう語ったのは、今回の新サービス「Heritage」のディレクターであるロベルト・ジョリート氏。FIAT500のデザイナーにして、元FIAT&ABARTHのデザインディレクターである彼のプレゼンテーションには、ひとかたならぬクルマに対する愛が溢れていました。     今回のレトロモビルでは、FIATが誇る幻の名車にお目にかかることができました。   1953年にわずか15台しか作られなかったという、知る人ぞ知るFIATの名車8V(オットヴー)のスペシャルモデル「スーペルソニック」。 50年代初頭らしい通称“JET AGE”と呼ばれる流麗で洗練されたスタイリング、まさに「空飛ぶ〜」的なデザインと、瀟洒でモダンなインテリア(冒頭の写真が8Vのインテリア)に来場者たちは釘付け。     FIATといえば、500をはじめとする大衆車メーカーとして知られていますが、第二次世界大戦前までは、高級な仕立て服のようなクルマをメインとしており、第一回欧州グランプリにも名を連ねる1899年創業の老舗の名門。   戦後の方針転換から間もないタイミングのさなかに生まれた、かつての高級路線時代のFIATを彷彿とさせるこのクルマは、同じトリノを拠点とするカロッツェリアの名門、ギアの手によるもの。 内外装ともに美しいこのクルマは、大変価値が高く、現在も億単位の高値で取引される、文字通り「幻の名車」となっています。   そんなクルマがサラリと売られているレトロモビルは、さしずめお金持ちのための桁違いの蚤の市といえるかもしれません。ちなみに、そんな価格のクルマであっても初日にはすでに「SOLD OUT」の札が…。     「珍しいクルマ、高級なクルマだけがレトロモビルの魅力ではありません。パリという街で行われるこのイベントは、奥さんや恋人といった女性たちにとっても、一緒に行く意義があるイベントなんです…。」とは、イベント・オーガナイザーのメルシオン氏が教えてくれたレトロモビル成功の秘訣。 そうなんです。あのパリでクルマも歴史も買い物やグルメも楽しめてしまう、楽しいイベントがレトロモビル。   ヴィンテージカーをお買上げになるならないは別として、是非一度足を運んでいただきたいイベントです。 […]

NEWS

トリノで行われた旧車イベント〜第36回、アウトモトレトロ Vol.1

トリノ、FIAT、蚤の市 いまから120年近くも前、1899年7月11日に創立されたFIATは、イタリア最古の自動車メーカー。ちなみに、この世に初めて「自動車=Automobile」という言葉が使われたのが同年1899年の1月のニューヨーク・タイムズ紙だといわれています。FIATが世界最古というわけではありませんが、自動車製造の黎明期に産声を上げた、数少ない歴史あるブランドであることに間違いはありません。   そんなイタリア(主に北中部)では、自動車関連のイベントは日常茶飯事。このいわゆる「蚤の市」的イベントは、真夏(7、8月)と真冬(12月、1月)を除けば、ほぼ毎週末、さまざまな規模や内容で各州、各都市、各市町村で行われており、週末の市民の楽しみとして長く愛されています。   トリノでの最大規模がこの「Automotoretro(アウトモトレトロ)」。今年で36回目を迎えるこのイベントは「自動車+バイク+レトロ」を意味するその名の通り、自動車やバイク、自転車などあらゆる車輪がついたもの、そしてその部品はもちろん、広告やノベルティといった関連商品からおもちゃに至るまで、様々な「旧いもの」が手に入る正真正銘の蚤の市なのです。     1923年に生まれたFIAT社の本社兼工場施設であったLINGOTTOの隣(昨年まではリンゴットの一部も使用していた)で開催されるお膝元どころか城内開催のような趣のイベントで、FIAT好きにはたまらないロケーションです。ちなみにこのリンゴット内には商業施設や映画館、ホテルなどもあるので会場までのアクセスも至便。そのロビーには同じトリノの名門、ランチアの旧車が展示されていたりと、ファンにはなかなかたまらない演出がなされています。     あくまでいち都市のローカルイベントでありながら、やはり多くのメーカーが林立していたトリノの引力のなせる技なのか、隣接するスイスやドイツ、フランスはもちろん、オランダやスペイン、ベルギーあたりからも高速をすっ飛ばしてやってくるファンたちも決して少なくない、人気のイベントとなっています。     ブームの裏に…。 FIATやアバルト、ランチアなど多くのイタリアの代表的メーカーや、ピニンファリーナやベルトーネといったイタリアを代表するカロッツェリアが立ち並んだトリノ。やはり本場ならではの「掘り出し物」や「お宝」が多いのもこのイベントの魅力です。   しかし、昨今の旧車ブームによって、多くのバイヤーがトリノに訪れるようになり、ここ数年では高額取引がなされる車両をはじめ、関連部品などの出展数も減少傾向。その煽りを受けてか、軒並み価格が高騰するという状況に見舞われています。   それでもやはりそこはトリノの底力とでも言うのでしょうか。進む高齢化に伴う「次世代へのバトンタッチ」は避けられず、ひょんなことで幻の名車や珍車が売りに出されることも少なくありません。そんな中にはワンオフ(別注・特注)やワンオーナーものがあったりしますので、旧車ファンとしてはやはり気が抜けません。     もうひとつの魅力は、オーナーズクラブの出展です。ここでは、まずお目にかかれないようなコンディションの名車や珍車にお目にかかるチャンスであり、また、ユーザー同士の交流や、情報交換ができるのも大きな魅力。これはSNS全盛となった今も変わらず続く伝統だといえます。     特にイタリアの自動車最大の魅力であるデザインは、紙面や画面で見るのと、間近に見たり触ったりするのとでは大違い。その圧倒的な存在感には、毎回ヤラれてしまいます。   長い歴史は、長く愛されてこそ生まれるものであり、そうした足跡や今も綿々と続く流れのようなものを感じさせてくれるのが、こうした特定ジャンルの蚤の市の魅力。   次回は「アウトモトレトロ」をもっと深掘りしていきたいと思います。 […]

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CULTURE

芝浦に160年。老舗寿司店の主人に聞く江戸庶民の気質と遊び

1800年代には人口が百万に達し(※)、世界最大級の都市といわれた江戸。 そこでは300年余の間に生活のあらゆる部分が独自の発展を遂げ、明治、大正、昭和を経て現在に受け継がれたものも少なくありません。今回は、創業160年を数える老舗寿司店のご主人に、今も息づく江戸の庶民文化について伺います。 ※当時行なわれた町人対象の人口調査に、記録のない武家や公家などの推計を加えたもの   「小粋」を尊ぶ江戸の暮らし 「小粋」、辞書を引くと、なんとなく気が利いていたり、しゃれていることを指す言葉だと記されています。小粋の小は一歩下がった謙虚な表現で、これみよがしではなく、さりげなく漂う洗練を小粋と呼んできたわけですね。 こういった感性を大切にしたのが江戸の人々で、それは明治維新を経て東京となった今も息づいています。東京湾に面し、運河が走る港区の芝浦界隈もそのひとつ。多摩川など多くの川が流れ込む豊饒な海は、良質な魚介を産し、それは江戸前の由来にもなりました。 この地に徳川幕府の時代、安政から160年続く寿司店があります。   現当主で五代目という「おかめ寿司」は、江戸前の伝統を守る老舗。店主でありながら、同じく江戸庶民に愛された「江戸前の小物釣り」や「落語」も愛する長谷文彦さんは、小粋な暮らしを平成の世に実践する現役の江戸っ子です。今回は、今も残る江戸の嗜みや愉しみを伺いました。     切って、握る…シンプルだからこその奥深さ おかめ寿司の創業は安政2年(1856年)、徳川幕府が終焉に向かう時代でした。 「江戸時代、ここには漁港と河岸がありましてね。この先の東禅寺にイギリスの公使館ができて、ウチの初代が魚介を納めるようになりました。その頃、巷では“イギリス人が娘の生き血を呑んでる”なんてウワサが広がってたんです。おそらく、それはワインだったんでしょうねぇ(笑)。そんなわけで、飯炊きに若い娘を出入りさせるなんておっかない! というわけで27歳(当時じゃこれで大年増といわれたそうです)だった初代の女将さんが選ばれて、そこで初代と出会い夫婦になったんです。で、その後独立して寿司屋を始めたというあんばいです。」   明治維新前夜、激動の時代に歩みを始めたおかめ寿司ですが、寿司はシンプルだからこそ奥が深いと言います。 「塩や酢でしめたりしますが、結局は切って、握るだけの仕事なんです。でも、切り方によって、同じ魚でもさっぱり感じたり、そうでなかったりするんです。包丁で魚のよさを引き出せるんですよ」 昨今、ウニやイクラの軍艦巻きなど、かつては江戸前寿司になかったものも出すようになりましたが、160年間変わることのない伝統もあるとか…。   「アジ、サバ、小肌の締め方ですね。塩引きだけで旨みを出すっていうのもこだわりがあって。夏場のスズキだってちょっとクセがありますが、塩をやって、そのあとで洗うとクセが抑えられて、旨みが出てきます。寿司は男、それも職人も多かった江戸の街で、気が短くて味にうるさい連中が育てた文化ですよね。だから昔の寿司は大きかったんです。祖父の話では、今の三倍くらい。仕事帰りとかの食べ物ですからそうなったのだと思います」 時代と共に、客層もその好みも変化します。今ではトリュフを使った創作寿司を出すような店もあるほど。伝統は革新の積み重ねと言いますが、寿司の大きさだけでなく、おかめ鮨も、世の中の動きにアンテナを張って、新たな素材や味にも可能性を探ります。   「うちもカリフォルニアロールを出せなんて言われて最初は面食らいましたが、最近では、カウンター8席全部外国の方なんてこともありますからね。やっぱりそこは柔軟に対応するということも必要なのかなと思いましたよ。でないと絶滅した恐竜みたいになっちゃう…。」と、長谷さん。老舗ののれんを守る努力も忘れません。     江戸の人々が愛した小物釣りの深淵 運河や水路が縦横に走る江戸の街は「東洋のベニス」と讃えられたと言います。そこではフナやタナゴ、ハゼなどの釣りが楽しまれ、武士や町人の憩いの場となっていました。浮世絵にも釣りを楽しむ人々が多く描かれ、女性の釣り姿も目につきます。長谷さんが長年愛する江戸前の小物釣りについて伺ってみました。   「大名が楽しんだというタナゴ釣りなど小物釣り文化は現代にも受け継がれてきました。釣り糸は生娘の黒髪に限る…。なんて話もあって、私も女房の髪で真似したもんですよ(笑)。旦那衆も“ちょっと組合の寄り合いに…”とか言って、女将さんに内緒で釣りに行ってたんですね。そんな時、タナゴとかの小継(こつぎ)の竿は都合がいいんです。胸の内ポケットに隠せるから、仕事の合間にちょいと1時間って…。」     江戸前の釣道具は、指物(さしもの・板を指しあわえて作られた家具や器具の総称)や漆の高い技術がふんだんに盛り込まれつつも、これ見よがしな華美に走らない江戸の感性が漂っています。コンパクトでありながら、求められる機能は満たされていました。       「享保の倹約令(第8代将軍徳川吉宗による幕政改革)の影響かもしれませんが、表地より裏地に凝るなんてのが粋とされていました。でも、やろうと思えば絢爛豪華にもできたと思うんです。そうはせずに、しかし凝る所には凝る…。釣具で言えば1本の篠竹を切ったっていいのに、節が詰まってる竹を捜したり、それぞれの部分に合った竹を吟味して継竿にしたのは、他人より粋で優れた道具がほしい釣り師と、それに応えようとする職人達のいい関係があったからでしょうね。釣り師はパトロン的な存在で、若い職人を育てようとする……呉服屋の旦那衆とか日銭で金回りのいい釣り師は、見込みのある若い船頭がいると、何人かで金を出し合って船を1艘造ってやるんです。でも、客としてきちんと金を払って乗り、恩着せがましいことは一切言わない。そんな粋なことをしてたんです。」     見栄と我慢と意地っ張り…人情あふれる落語の愉しみ 落語も江戸っ子の楽しみでした。明治大学の落語研究会であの三宅裕司さんの後輩である長谷さんにとって、この小粋な芸能も幼い頃から生活の一部だったといいます。   「先々代が、和服着て小唄、端唄、常磐津、踊りを嗜み、歌舞伎の大向こうでした。先代の勘三郎さんが麻雀仲間でよく来てましたよ。出前の帰りに、芝居をひと幕見てくるような人でした。ウチは、仕事が休みの忌み日ってのがあって、先々代と墓参りに行くんですけど、帰りに上野でとんかつ食って、鈴本演芸場寄って落語聞いたり、浅草公会堂行ったり…。そんな風に落語と接していたんです。で、寄席の落語の真似を学校でやるとウケるわけですよ。こりゃ面白いなぁ…って。それで大学で落研(落語研究会)に入ったんです。」   落語は庶民の娯楽であると同時に生活の鏡でもありました。 「江戸の落語に出てくる気風のよさとか、見栄と我慢と意地っ張り、やせ我慢の大人って、わたしの子供の頃は普通にいたんです。でも、昭和50年頃を境に減っていきましたね。職人仕事の工場が郊外に移転したからなんですね。」         切る、締める、握る…シンプルだからこそ、ごまかしがきかず、技術とセンスがそのまま現れる寿司の世界。小さな魚を釣る楽しみを、コンパクトな道具や釣法に昇華させていった小物釣り。そして、粋を尊び、細やかさを身上とする市民の息づかいを描き出した落語。   文化を守るという意味ではイタリアも頑固である。こと、楽しいことに対する徹底的な姿勢は、こうした江戸っ子の気質にも近いものがある。 「フィアット500で、春の小物釣りとか行ってみたいですね。小さな道具を積んで、ウインドウからの景色が違って見えると思うんだよねぇ。水郷とかにタナゴとかフナとか、お弁当作ってさらっと遊びに行ったらいいだろうなぁ」。そういって笑った長谷さん…。 寿司職人が作るお弁当。それを彩るステキな小物たち。小粒だけど、あっけらかんとした開放感が十八番の500。是非ともそんな組み合わせで、ニッポンの桜を愛でてみたいものです。 […]

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CULTURE

生誕60周年! Nuova 500がイタリアで記念切手に!

文・大矢アキオ Akio Lorenzo OYA (イタリア文化コメンテーター)   2017年7月4日、フィアットNuova 500(チンクエチェント)が誕生60周年を迎えた。 1957年から1975年まで18年にわたり、400万台以上が造られたモデルである。ゆえに、今も世界でイタリアを語る際のアイコンとなっている。 故郷イタリアでは、ほとんどの人がNuova 500(イタリア人の多くは愛称でチンクイーノと呼ぶ)との思い出がある。60歳以上なら、少なくとも一度は所有もしくは運転したことがあるという人が大半を占める。     筆者の知人マリオ&ロザンナ夫妻もしかり。初期型の価格は49万リラで、平均的労働者の月給の10倍以上だった。若い頃買うのは大変だったのでは? そんな質問に対して彼らは「あの頃は毎年お給料が増えていったから、まったく心配なかった」と振り返る。“奇跡”といわれた戦後イタリア経済の活況を彷彿とさせる話である。 同じく知人のピエロ&ヌンツィア夫妻は、ミラノで交際していた時代、Nuova 500を各自持っていたと振り返る。「当時ミラノは、ナンバープレートの数字が偶数か奇数かで、走れる車の量をコントロールしていたのよ。運良く私のチンクイーノのナンバーは偶数、彼のは奇数だったから、毎日二人で走れたわ」とヌンツィアさんは笑う。     今もNuova 500を毎日の足とする人もたびたび見かける。調査によると、イタリアでは今も38万8千台以上が現存している。街を走れば誰もが微笑むそのキャラクターだけが理由ではない。2970✕1320mmという極めて小柄なボディゆえ、歴史的旧市街にある古い馬小屋を改造したガレージにも収まってしまうのである。自家製生ハムやワインの樽に埋もれるようにしてNuova 500が眠っている光景も、よく目にする。 加えて、イタリアでは30年以上前に生産され、かつオリジナル・コンディションが維持されている車は、自動車税免除という“おまけ”もついてくる。     若い世代もNuova 500が大好きだ。現行500の人気に反応するかたちで、納屋に眠っていた車を引っ張り出して、復元を試みる若者が現れるようになった。 この地では結婚式に新郎新婦が洒落た車に乗って教会に乗りつけるのがおきまりだが、レストア完了したNuova 500にリボンで飾ってやってくる光景も近年目撃するようになった。かつてのポピュラーカーが晴れの日の車にとは、あっぱれではないか。     しかし、Nuova 500による最大の功績を忘れてはいけない。 イタリアでは多くの地域で、人々は中世に起源を遡る城壁内と、その周囲で生活が完結していた。城壁の中で生まれ、学び、結婚し、働いていたのである。 それは筆者が住むシエナで、11世紀末に起源を遡る病院の建物が、第二次大戦後まで同じ場所で同じ機能を果たしていたことからもわかる。 彼らの生活に劇的な変化をもたらしたのは、1950-60年代に訪れたモータリゼーションと、その主役であるNuova 500であった。     人々はNuova 500に乗って城壁を飛び出し、隣の町や村へいつでも楽に移動できるようになった。 自由な移動は、郊外住宅や商業施設、さらには工場の建設も加速させた。これだけ多くの人々が一斉に城壁の外で暮らし始めたのは中世以来の出来事だ。 週末のピクニックや、夏や冬のヴァカンスなど、レジャーという習慣も誕生した。 それを陰で支えたNuova 500は、イタリアの歴史を変えたといっても過言ではない。     誕生60周年に際してイタリアのテレビ各局は、連日ニュースのヘッドラインで紹介し、主要新聞も軒並み文化欄に大きなページを割いた。 さらにイタリア郵便も。現行500のシルエットにNuova 500を重ねた、粋なデザインの記念切手だ。上部にはイタリア国旗のトリコローレが走る。     Nuova 500は、単なる生活の道具や車ではない。イタリアにおける20世紀の誇りなのである。 […]