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見て楽しむ北イタリア。ブラーノ島、チンクエ・テッレ、そしてトリノへ。日本に居ながらイタリアを感じチャオ!

一度は訪れたい絶景の街並み、ブラーノ島 フィアット好きにとって、いつだってイタリアは憧れの国。でも、行きたくても休暇は限られるし、運よく行けたとしても、見たい場所すべてを回るのはとても困難。そこで日本に居ながらイタリアを楽しめるバーチャルツアーを用意しました。イタリア旅行に行く予定のある人も、そうでない人も楽しめる、北イタリアのワクワクスポットをご紹介します。さあ早速、旅立ちましょう。   バーチャルツアーでは、ミラノを起点に、ヴェネチアのブラーノ島、チンクエ・テッレ、そしてミラノと北イタリアをぐるりと巡っていきます。   旅のスタートはミラノから。日本から直行便で行ける北イタリアの玄関は、流行の最前線に触れられる街。イタリア旅行が初という人は、都市の中心部に位置するミラノ大聖堂、ドゥオーモ(Duomo)を訪れ、世界最大級のゴシック建築に触れてみてはいかがでしょう。135本の尖塔と彫刻からなる大聖堂は、重厚感の中にもイタリアらしい華やかさが感じられます。   ミラノ大聖堂。   また、ミラノでは、初代『500(NUOVA 500)』でミラノの観光地を案内してくれる「ビンテージ フィアット 500ツアー」という民間によるサービスも提供されています。英語を話す運転手兼ガイドが、ドゥオーモ、スフォルツァ城、スカラ座などの観光名所を案内してくれるというもので、いくつかのオプションの中から好みのコースを選ぶことができます。ビンテージ『500』で巡るミラノ、通常のタクシーとはひと味もふた味も違った経験になりそうですね。   初代『500』。   次に巡る街は、ヴェネチアのブラーノ島。100を超える島々が点在するヴェネチアの中でも人気の島で、カラフルな街並みは、まるで絵画の中に入り込んだかのよう。漁業が盛んなブラーノ島では、濃霧の中でも漁師が自分の家をすぐに見分けられるように、建物を色とりどりにペイントしたのだとか。美しい街並みは、意外な理由から生まれたものだったのです。   ブラーノ島のカラフルな家々とその間を流れる運河。   アクセスは、ヴェネツィア本島のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会から近いフォンダメンタ・ヌォーヴェ(Fondamenta Nuove)駅からヴァポレット(水上バス)12番で「ブラーノ駅」へ。片道40分ほどの移動です。ブラーノ島は1-2時間ほどで回れる広さなので、カメラを片手に散策するのがおすすめ。     >>>次ページ 世界遺産チンクエ・テッレ、そしてフィアットの故郷トリノへ […]

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ミラノはいつもクリスマス!〜MILANOのスポット特集〜

“イタリア各地をめぐるフィアット”がテーマの『フィアット オリジナルカレンダー 2023』。フィアット各モデルが6つの街とともに描かれた2カ月めくりスタイルです。11・12月は『MILANO(ミラノ)』。イタリアを代表する商業都市ならではの多様性を紐解いてゆきます。今回も、イタリア在住のコラムニスト・大矢アキオ氏にミラノの魅力を伺いました。 『フィアット オリジナルカレンダー 2023』はダウンロードも可能。方法は記事の最後に掲載しています。ぜひチェックしてみてください。   ファッションとデザインが輝く街、ミラノ イタリア北部ミラノは、自治都市として神聖ローマ帝国から独立。中世後期からはヴィスコンティ家とスフォルツァ家のもと、ミラノ公国として大きく繁栄しました。しかし、その後ふたたび神聖ローマ帝国や、スペイン・ハプスバルク家の支配を経験。18世紀には今度はオーストリア・ハプスブルク家のもとに収まりました。19世紀初頭にはフランスのナポレオンの影響を受け、さらにイタリア統一2年前の1859年までふたたびオーストリアの支配下にありました。北と南の接点として、さまざまな影響を受けてきたことが、今日に続くミラノの多様性と国際化の下地になったと考えることもできます。   ▲『ビショーネ』は14世紀末から15世紀にミラノ公国を治めたビスコンティ家の紋章。教会をはじめ、街のあらゆる場所で発見することができます。   第二次大戦後はイタリアの奇跡的経済成長の原動力として、ミラノは存在感を強めます。たとえば服飾産業。1960年代のプレタポルテ普及にともない、ミラノはファッション・シティの地位をパリから奪い始めます。同じロンバルディア州にある都市・コモの絹織物産業も、発展の一翼を担いました。こうして彼らは従来までフランス系ブランドの下請けであったイタリア服飾産業の地位向上にも貢献したのです。毎年6月と9月に開催されるファッション・ウィークは、今もモードの最先端である象徴です。   ▲市内北部、国鉄ポルタ・ガリバルディ駅周辺は2010年代から目覚ましい再開発が行われ、みるみるうちに高層ビル街に。街づくりという観点では、ミラノで最もダイナミックな街区です。   ちなみに、ミラノを端的に浮き彫りにしたカンツォーネといえば、戦後イタリアを代表するシンガー・ソングライターのひとり、ルーチョ・ダッラが歌った1979年『ミラノ』でしょう。「ドイツ語で尋ねれば、シチリア語が返ってくる街」といった情景が数々表現されています。さらには、「Milano è sempre pronta a Natale (ミラノはいつもクリスマス)」とも。続くのは「それが過ぎると涙を流す。そして傷つく」です。祝祭と直後の虚脱感の双方を繰り返しながら、ときが過ぎてゆくクールな都市。それも大都市ミラノの姿なのです。   ミラノを走るフィアットたち おすすめスポット紹介の前に、ミラノで見かけたフィアットたちの写真をご紹介します。   ▲ミラノはもとよりイタリアを代表する高級ブティック街。モンテ・ナポレオーネ通りにたたずむ『500(チンクエチェント)』。   ▲近年、再開発が進むブラマンテ通り周辺を行く『500』。   ▲かつては工場街、今日はデザイン街区として知られるトルトーナ通りで。2代目『Bravo(ブラーヴォ)』※日本未導入。   ▲同じくトルトーナ通りで。カーシェアリングの『500』。   ▲トルトーナのビストロ前に駐車中の『500』。   ▲市内の南、ポルタ・ジェノヴァ駅周辺で。   ▲モンテ・ナポレオーネ通りに近い裏道で。2代目『Tipo(ティーポ)』※日本未導入。   ▲ナイトスポットとしても知られるガリバルディ通りに佇む『Panda(パンダ)』と『500』。 次のページ:【ミラノのおすすめスポットをご紹介】 […]

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花の都は“外”から眺めるほど深い 〜歴史に触れるFIRENZEのスポット特集〜

“イタリア各地をめぐるフィアット”がテーマの『フィアット オリジナルカレンダー 2023』。フィアットの各モデルが6つの街とともに描かれた2カ月めくりのカレンダーです。9・10月に描かれている街は『FIRENZE(フィレンツェ)』。ジョットの鐘楼で有名なドゥオーモ(大聖堂)に代表される建築物や数々のフレスコ画、そして油彩作品は、いかに街がルネサンス文化の旗手であったかを今に伝えています。今回も、イタリア在住のコラムニスト・大矢アキオ氏にフィレンツェの魅力を伺いました。 『フィアット オリジナルカレンダー 2023』はダウンロードも可能。方法は記事の最後に掲載しています。ぜひチェックしてみてください。   ルネサンスの中心地、フィレンツェ 半島中部に位置するフィレンツェは、イタリアに20ある州のひとつ、トスカーナ州の州都です。コムーネと呼ばれる都市部の人口は、東京都新宿区(約33万人)より少し多い約36万7,800人。面積は102平方km。東京でいえば世田谷区と江東区を足した広さより、やや大きめといったところでしょうか。地形が盆地のうえ、湿潤温帯気候という分類が示すとおり、夏は湿気を強く感じます。 市内で最も古い橋『ポンテ・ヴェッキオ』には、当地を支配したメディチ家の専用通路も残ります。眼下のアルノ川はかつて水運をはじめ、さまざまな用途に使われてきました。同時に、1966年の洪水では歴史的美術品に大きな損害を与えるきっかけに。ゆえに、その流れは人々にさまざまな思いを抱かせます。 北には1770年にあのモーツァルトも越えたアペニン山脈を望み、南にはイタリア屈指の名産ワイン『キャンティ・クラシコ』のワイナリーが広がります。   ▲14世紀初頭に完成したヴェッキオ宮。メディチ家支配時代には、ときに血なまぐさい政争の場となりました。現在はフィレンツェ市庁舎です。   フィレンツェは、イタリア史において最も大きな役割を果たしてきた都市のひとつです。その主役となったのは、いうまでもなくメディチ家。14世紀に銀行家として頭角を現し、続く15世紀にはローマ教皇庁との繋がりを巧みに構築しつつ、フィレンツェ共和国の実質的支配者となります。ちなみに、当時の法定通貨単位はフィオリーノ(フローリン)。これは現在フィアット製商用車(日本未発売)のネーミングとして親しまれています。 メディチ家はフランス王室とも関係を築きました。16世紀、カトリーヌ・ド・メディシスは、アンリ2世のもとへ嫁ぎます。彼女はイタリアの食文化をはじめ、さまざまな風物をフランスに伝えたといわれています。さらにメディチ家は、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ヴァザーリといったイタリア・ルネサンスにおける天才芸術家たちのパトロンを務めました。   ▲『サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂』のファサード(奥)。奉献年は1436年ですが、ファサード部分は4世紀以上後の、1887年の完成です。   1569年にはコジモ1世がローマ教皇から大公に叙され、トスカーナは従来の共和国から大公国となります。その後、大公国はメディチ家の手を離れますが、ハプスブルク=ロートリンゲン家とフランスの支配時代を経て、イタリア統一が行われる前年の1860年まで続きました。つまり今からわずか160数年前まで、フィレンツェと一帯は独立した一国だったのです。その後イタリア王国が誕生しても、フィレンツェは重要な役割を果たしました。1865年から、首都が現在のローマに決まる1871年まで約6年にわたり首都機能を担ったのです。 いっぽう、第二次世界大戦後におけるフィレンツェの横顔のひとつはファッションです。1951年にイタリア初のショーがこの地で開催されました。毎年2回、世界からバイヤーやファッショニスタたちが訪れるメンズモードの見本市『ピッティ・イマージネ・ウオモ』は、その伝統を受け継ぐものといえましょう。   フィレンツェで見かけたフィアットたち おすすめスポット紹介の前に、フィレンツェで見かけたフィアットたちの写真をご紹介します。   ▲フィレンツェを象徴する橋『ポンテ・ヴェッキオ』を望むアッチャイウオリ通りで。   ▲フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅近くで。迷彩のカッティングシートを施された『Panda(パンダ)』。   ▲アニョロ通りは、旧刑務所を再開発した地区として知られています。『Nuova 500(ヌォーヴァ チンクエチェント)』の空冷エンジン音がこだまします。   ▲レプッブリカ広場近くのブルネレスキ通りに佇んでいた『500(チンクエチェント)』。   ▲レオナルド・ダ・ヴィンチの故郷であるヴィンチ村で発見した、懐かしい『127』。1977年以降のセリエ2です。   ▲絵付け陶器の町として知られるモンテルーポ・フィオレンティーノ。いかにフィアットが親しまれているかが窺える1コマです。   ▲モンテルーポ・フィオレンティーノで見つけた、アーチの向こうから顔を覗かせる『500』。   ▲ヴィンチ村の土産屋台横で発見した初代『Panda』後期型。後期型のベーシック仕様として人気を博したYoung(ヤング)です。   ▲昼下がりのヴィンチ村で。   次のページ:【フィレンツェのおすすめスポットをご紹介】 […]

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“料理×クルマ”シェフ・ファビオとフィアットがコラボレーション!〜Tasty FIAT!〜

YouTubeやメディアで大人気のシェフ・ファビオさんと、フィアットとのコラボレーションプロジェクトが実現!フィアットが大好きというファビオさんが、6ヵ月間にわたって『500e』をはじめとするフィアットのさまざまなモデルに乗り、各モデルをイメージしたスペシャルレシピを考案します。今回はそのプロジェクトのスタートにあたり、ファビオさんのこれまでの経歴や現在の活動をご紹介しつつ、『Tasty FIAT!』の意気込みやフィアットへの想いついてお話を伺いました。   16歳で出会ったイタリアの文化と料理 ──まずはファビオさんが料理に興味を持ったきっかけを教えてください。 そもそもで言うと小学2年生ぐらいのときに、実家で土日のお昼に「キッチンに立ってもいいよ」みたいな日があって、そのときに初めてウインナーを焼いたり、お味噌汁を作ったりしたのが最初です。そうしているうちにどんどん料理が楽しくなって、いつの間にか自分の中での習慣になり、家族の中でも自分が作る日みたいなのが少しずつできていきました。 僕は何かひとつのことにハマったらとことんハマる性格。料理以外でも、美術とかものづくりが好きで、料理を作り始めたら本当に楽しかったし、両親や兄弟が「おいしい!」って言ってくれたのもうれしかったんです。   ▲シェフ・ファビオさん   ──そこから夢として、仕事として料理人を志したのはなぜですか? 父が薬剤師をしていて、あるときにイタリアのローマに仕事で行くことになりました。僕は日本でずっとサッカーをやっていましたが、高校1年のときに足を悪くして、部活を辞めなきゃいけなくなってしまって。そんな高校1年の冬休みに、ふと父のいるローマに行ってみようかなと思って、16歳で初めてイタリアに行きました。そこで初めてイタリア料理に出会ったんです。 そのとき僕は、イタリアの料理だけではなく、クラシック音楽やフィアットなど、イタリアのカルチャーすべてにとても衝撃を受けて。漠然とですがイタリアで働きたいなと思い、そこから料理人を目指すようになり、20歳のときにイタリアに渡りました。父親がイタリアに行ってなかったらイタリア料理とは出会ってなかったでしょうから、いろいろな縁は感じています。     ──イタリア時代に、特に印象に残っているエピソードをお聞かせください。 当時は何もかも日本と違ったような気がしましたし、日本で閉塞感のようなものを感じていた時期にイタリアに行ったので、日本とは違う文化がとりわけ魅力的に映った部分はあったと思います。その結果として、イタリアの文化や料理をとことん現地で吸収できましたし、そこからイタリアが好きという気持ちが変わることなく今日まで来ています。     ──イタリア料理のどういった部分に魅力を感じたのでしょうか? 16歳の自分がイタリア料理を好きになった理由は、たぶん“簡単”だったからだと思います。“簡単”なのって料理に関して僕がいいと思っているところでもありますが、基本的に大体の仕事は成果が出るまでプロセスにけっこう時間がかかる中で、料理は完成までにそこまで時間がかからない。自分の考えたものが、すぐ形になるというところが素晴らしくて。料理もいろいろなジャンルがありますけど、その中でもイタリア料理はやっぱりシンプルで、素材を大切にしようっていう文化が日本料理とも似ている。そのシンプルさが、自分にはすごく魅力的だったのかなと思います。     あとは単純に美味しかった。食べて感動したんですよね。最初に行ったローマでは、カルボナーラやアマトリチャーナ、トリッパのトマト煮込みとかを食べたんですけど、すごく美味しくて。あとはオリーブオイルと塩だけで味付けして焼いた野菜も、シンプルだけど美味しかったんです。     シェフとしてイタリア料理を発信する『ファビオ飯』 ──20歳からイタリアやドイツの大衆店から星つきレストランまで6年修行し、日本に帰国されました。帰国してから現在のスタイルに至るまでの経緯を教えてください。 帰ってきたときはけっこう迷っていた時期でした。そのときの自分のレベル的には、お店のスーシェフ(副料理長)かシェフ(料理長)のポジションでしたが、どのジャンルでどうやっていくのかというのがちゃんと定まっていなくて。会社員としてレストラン勤務をしていましたが、特に迷走していた時期が25歳からの2年ぐらい。28歳のときに店を辞めて、フリーになってYouTubeでの動画配信を始めました。     ──料理を披露する場として、YouTubeを選んだ理由は何ですか? 本来はお店をオープンしてそこで料理を作るというのが一番いいと思いますが、単純にコロナの時期と重なったのもあり、将来的には自分のお店を作りたいという目標はあります。その目標の過程にYouTubeがあって、YouTubeはあくまでツールとして、自分が今まで10年間やってきた技術や経験をアウトプットする場所という捉え方をしています。     ──今ではチャンネル登録者数が50万人を超える大人気チャンネルになった『ファビオ飯』ですが、動画を作るにあたって意識していることはありますか? 元々はお店でずっとやってきた料理人なので、動画を撮り始めたころは、まず料理を作りながら喋るということが全然できなかったんです。その段階から始めているので、演者的なレベルは最初マイナス。でも、今ようやく400本ぐらいは動画をやってきて、なんとかできるようになったかなと思っています。 YouTubeで発信する内容に関しては、何を伝えたいのかということを明確にすることを心掛けています。自分が作りたい料理を作っても、再生回数が伸びるわけではない。やっぱり料理人目線になると難しい料理になってしまうし、世の中の多くの人たちが何を求めているのかをちゃんと考える必要がある。だから僕はイタリア料理がメインですが、配信しているものは主にパスタ料理と肉料理の2つなんです。パスタ料理はわかりやすいし、キャッチーだし、みなさん作りやすい。それに加えて、料理男子の中で最近特に需要がある肉料理。その2つに絞った配信をしています。   次のページ:【フィアットの多様なイメージを表現した料理が誕生】 […]

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小さくて、偉大なクルマ!イタリア人に愛された『Topolino』がEVで帰ってきた

イタリア人にとって懐かしい名前のクルマが復活。フィアットが2023年7月4日に欧州で発表した小型のシティーコミューターEV(電気自動車)『Topolino』です。イタリア在住のジャーナリスト・大矢アキオ氏に、新『Topolino』の解説とともに、その偉大なルーツをひも解いていただきました。   ▲『Topolino Dolcevita(トポリーノ ドルチェヴィータ)』。オプションパーツのカタログには簡易シャワーも。   イタリア流・近距離モビリティ! この度、発表された新たな『Topolino(トポリーノ)』は、都市部や近距離移動を主な用途とした2人乗りのEV(電気自動車)です。全長×全幅×全高は2,535mm×1,400mm×1,530mm、そしてホイールベースは1,730mm。最高出力6kWhのモーターで前輪を駆動します。最高時速は45 km/hで、満充電からの航続可能距離(WMTCモード)は75kmです。 フィアットは、EVならではのカーボン(二酸化炭素)フットプリントやサウンド(騒音)フットプリントの削減、そしてコンパクトなサイズによるスペースフットプリントの削減という、都市で持続可能な自由を実現するためのすべてを備えている、と強調しています。   ▲ミラノ・スカラ座近くの風景を背に走る『Topolino』。フロントフェイスは1957年『Nuova 500(ヌォーヴァ チンクエチェント)』のイメージを継承しています。   控えめなパワーとスピードには理由が。欧州連合の『ライト・クアドリサイクル』という超小型車規格に準拠しているのです。このカテゴリーは、長年ヨーロッパで主に小さなメーカーが手掛けてきましたが、近年はいくつかの主要自動車ブランドが参入を試みています。超小型車扱いとなることで、『Topolino』もイタリアでは14歳から原付二輪免許で運転が可能です。   ▲おしゃれなインストルメントパネル。最小回転半径は3.6m。   ▲メーターパネルもミニマリズムを貫いています。   車型はクローズドボディと、『ドルチェヴィータ』と名付けられたオープンの2タイプ。『ドルチェヴィータ』はドアさえ持ちません。1960年代の『Nuova 500』や姉貴分である『600』をベースに、数々の外部製作者が手掛けたビーチカーのデザインが反映されています。   ▲クローズドボディ仕様のパノラミックルーフ。『Topolino』はモロッコもしくはポーランドで生産される予定です。   ▲『Topolino Dolcevita』   ▲『ドルチェヴィータ』は1960年代に一世を風靡したビーチカーを思い出させるドアレスのモデルです。   2つのボディタイプともカラーは『ヴェルデ・ヴィータ』の1色。ホイールデザイン、インテリアも1種類と、ラインアップでもミニマリズムが実践されています。   ▲イタリアの220ボルト2.3kW家庭用電源を使って、0%から満充電までの所要時間は約4時間です。   偉大な先代『Topolino』の歴史 “Topolino(トポリーノ)”とはイタリア語で“小ネズミ”を意味します。実はこの名前、1936年にデビューしたフィアットの小型車にも使用されていたのです。正式名は『500(チンクエチェント)』といいます。 ここで疑問を抱く方のために説明すると、実は“500”というネーミングは、この初代『500 Topolino』が最初でした。つまり、今日多くの人が思い描く1957年『500』より前に『500』は存在したのです。1957年『500』を呼ぶとき、あえて“新しい”を意味する“nuova”を加えて、『Nuova 500』とするのは、そのためです。 『500 Topolino』の開発に参画したダンテ・ジャコーザは、後年フィアット史上に残る名設計者となります。でも、実は彼がいたグループは、それまで乗用車をデザインしたことがありませんでした。おかげで、既成概念にとらわれず、シンプルなシャシー(車台)+全体の剛性に貢献するボディワークというアイデアを生むことができたのです。   ▲『500 Topolino』は1936年にデビューしました。   では、なぜ“小ネズミ”なるニックネームが付いたのか?答えは、そのデザインにあります。初期型である『500 Topolino A』および、それに続く『500 Topolino B』のラジエターグリルは、1930年代に流行した流線型を巧みに取り入れた形状でした。下に向かって三次元に絞られており、あたかも小ネズミの顔をイタリア人に連想させるデザインでした。2人乗りに割り切ったボディ形状も、すばしっこく走り回るネズミに似ていたことは想像に難くありません。   ▲『500 Topolino A』。後輪の後ろを覗くと、カンチレバー方式のため、板バネが後方まで繋がっていません。 […]

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COSTIERA AMALFITANA 小さな港は、いつも世界へ向いていた 〜アマルフィ海岸のスポット特集〜

“イタリア各地をめぐるフィアット”がテーマの『フィアット オリジナルカレンダー 2023』。フィアットの各モデルが6つの街をめぐるイラストが描かれています。7月と8月はイタリア南部カンパーニャ州の『AMALFI(アマルフィ)』。ユネスコ世界遺産に指定された1997年の遥か以前から、イタリアを代表するリゾート地としてその名は広く知られてきました。世界中で人気のアマルフィ海岸の魅力を、イタリア在住のコラムニスト・大矢アキオ氏にたっぷり伺いました。 なお、『フィアット オリジナルカレンダー 2023』はダウンロードが可能。ダウンロードの方法は記事の最後に掲載しているのでぜひチェックしてみてください!   南イタリアの避暑地、アマルフィ海岸の歴史 アマルフィ海岸には、玄関口であるその名もアマルフィのほか、ヴィエトリ・スル・マーレ、ポジターノといった宝石のような町や村が連なります。アマルフィ海岸へのアクセスは、ナポリ中央駅から特急列車で約30〜40分のサレルノ駅で、バスもしくはフェリーに乗り継ぐのが便利です。バスだと約50分。カーブに差し掛かるたび、ステアリング片手に安全祈願の十字を切るドライバーに、この地の人々の信仰の篤さを垣間見ます。いっぽう、所要時間約30分のフェリーは波が荒い日も。それでも、断崖と海岸線に挟まれた小さな町や村が奏でる穏やかな雰囲気は、少しアドヴェンチャー的旅程をこなしたあとだけに喜びが倍増します。   ▲海岸の西端にある村、ポジターノ。劇作家ジョン・スタインベックがこよなく愛したことでも知られています。早くも3月末頃には、夏を待ちきれない北の国からの観光客が水着でビーチに繰り出すことも。   驚くべきはその歴史です。今日の穏やかなたたずまいとは対照的に、9世紀にナポリ公国から独立後、アマルフィ公国として地中海貿易で大きな力を発揮しました。アマルフィの町に残る造船所跡は、その名残です。アマルフィの町役場のウェブサイトには、“Antica Repubblica Marinara(古き海洋共和国)”の文字が、今も誇らしげに記されています。 ただし、公国が12世紀にシチリア王国に併合されると、一帯はひなびた港町になってしまいました。   ▲アマルフィ地方の伝統産品といえば、レモンとそれを用いた強いディジェステーヴォ(食後酒)。   そうした状況に、変化が訪れたのは20世紀に入ってからのことでした。アマルフィの隣村で、イタリアを代表する陶器『マヨルカ焼き』の産地でもあるヴィエトリ・スル・マーレ村は、1926年にユダヤ人迫害から逃れてきたドイツ人陶芸家マックス・メラメルソンを受け入れます。彼が注目されたことで、世界各地から同業者が集うようになりました。 第二次世界大戦後になると、さらなるムーブメントがもたらされます。1946年、映画監督ロベルト・ロッセリーニがロケ地に選定。1953年には、アメリカ人劇作家ジョン・スタインベックがポジターノを訪れて雑誌に紹介しました。それらをきっかけに、有名人の避暑地として注目を浴びるようになったのです。フィアット創業家の3代目で、イタリア戦後経済成長のシンボルでもあったジャンニ・アニェッリもしかり。1962年、アマルフィでジャクリーン・ケネディと過ごしています。その様子は、“ドルチェ・ヴィータ”の象徴として多くのパパラッチたちによって記録されました。2023年に天国に旅立ったロック歌手、ティナ・ターナーもポジターノの小道を歩くのがお気に入りでした。 この夏も多くのセレブリティが訪れ、その様子は週刊誌のグラビアを飾り始めています。ヴィエトリ・スル・マーレにも陶器工房で自身の作品を形にすべく、引き続きクリエイターが集います。穏やかな風景から想像できないほどの、外に向かった繋がりと寛容性。十世紀以上も前の海洋国家の気風は、今も脈々と息づいています。   ▲夜のアマルフィ。夏この地を訪れる人々は、誰もが遅い日没を存分に楽しみます。     アマルフィ海岸で見かけたフィアットたち おすすめスポット紹介の前に、アマルフィ海岸で見かけたフィアットたちの写真をご紹介します。   ▲アマルフィの町で。ジェラテリア前に停車する『500(チンクエチェント)』。   ▲昼過ぎ、アマルフィの町で。ナイフやフォークの音が聞こえてくる窓の下で、『Nuova 500(ヌォーヴァ チンクエチェント)』も小休止です。   ▲かつていくつもの鍛冶屋が店を構えていたというアマルフィのドージ広場で。断崖とビーチにはさまれた町で、小回りが効くフィアットは、人々の頼れるモビリティです。   ▲ポジターノで。『Panda(パンダ)』と並んでいるのは、狭い道での取り回しを考慮した、この一帯で多くみられる小型バスです。   ▲陶器の町ヴィエトリ・スル・マーレのショップ前に佇む初代『Panda』。   ▲アマルフィで。町の人にとっては見慣れた足である『Nuova 500』ですが、観光客にはイタリアン・ムードを盛り上げてくれる大切な名優です。   次のページ:【アマルフィ海岸のおすすめスポットをご紹介】 […]

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オルチャ渓谷の大自然に身を委ねて 〜もう街には帰れない、VAL D’ORCIAのスポット特集〜

“イタリア各地をめぐるフィアット”がテーマの『フィアット オリジナルカレンダー 2023』。2ヶ月ごとに、フィアットの各モデルがイタリアの6つの街をめぐるイラストが描かれています。5月と6月は、イタリア人のみならずヨーロッパ各国の人々にとっても憧れの地『VAL D’ORCIA(オルチャ渓谷)』です。本連載を執筆しているコラムニスト大矢アキオ氏は、渓谷の玄関口であるシエナ県をベースにして27年。在住者ならではの視点で、エリアの魅力をたっぷり紹介してもらいましょう。 なお、『フィアット オリジナルカレンダー 2023』はダウンロードが可能。方法は記事の最後に掲載しているので、ぜひチェックしてみてください!   ▲サン・クイリコ・ドルチャとピエンツァを繋ぐ道沿い、歴史を1590年にさかのぼる『ヴィタレータの聖母礼拝堂』。羊飼いの前に現れたとされる聖母マリアを祀ったものです。   世界遺産にも登録されているオルチャ渓谷 オルチャ渓谷は、イタリア中部に位置するシエナ県の南部・主にオルチャ川流域を指します。面積は、東京23区(約627平方キロメートル)に近い610平方キロメートル。牧歌的な丘に糸杉が連なる風景と、ローマに至る巡礼ルート『フランチージェナ街道』は、長年にわたって芸術家たちのインスピレーションを刺激し続けました。2004年にはユネスコの世界遺産に指定され、さらに世界から注目されるようになりました。   ▲バーニョ・ヴィニョーニの中心にある『源泉の広場』。この地の温泉水は遠くエトルリア時代から人々に愛されています。15世紀後半、イタリアのルネサンス最盛期にメディチ家の当主であったロレンツォ・デ・メディチも通っていました。   ▲『Via dell’amore(愛の小径)』と名づけられた場所で。15世紀のローマ教皇ピウス2世が、故郷を理想都市にすべく改造を試みたのが、今日のピエンツァ村です。   最上級格付けであるDOCGワイン『ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ』、羊乳のチーズ『ペコリーノ』などグルメ垂涎の地としても知られています。   ▲高級ワイン『ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ』を手掛けるワイナリーのひとつ、チャッチ・ピッコローミニ・ダラゴーナ。その歴史は17世紀末の修道院長による領地に始まります。   毎年初夏にはヒストリックカー・ラリー『ミッレ・ミリア』が、秋にはレトロ自転車走行会『エロイカ』がオルチャ渓谷をコースにするのも、数百年時計が止まったような自然と村が残っているからこそです。 ちなみに私の知人のフランス人やドイツ人は、毎年オルチャ渓谷でバカンスを過ごしたあと、途中の街に脇目もふらず国境まで帰っていきます。夢から醒めたくないといわんばかりに。それはこのエリアが、あまりに魅力的であるからに他なりません。   ▲その名も『糸杉の道』。“イタリアで最も美しい温泉地”と言われる小さな分離集落のバーニョ・ヴィニョーニとバーニ・ディ・サン・フィリッポを結ぶ州道2号線に現れます。   オルチャ渓谷を走るフィアットたち 今回もおすすめのスポット紹介の前に、オルチャ渓谷で見かけたフィアットたちの写真をご紹介します。   ▲トッレニエリで。春の丘を下る『500(チンクエチェント)』。   ▲ピエンツァ村を駆け抜ける2代目『Doblò Cargo(ドブロ カーゴ)』。ルネサンス建築と不思議と調和するデザインがイタリアン・ブランドらしいところです。   ▲サン・クィリコ・ドルチャのプレトリオ宮前を曲がる『500X(チンクエチェントエックス)』。この町は長年伝統的な自動車レース『ミッレミリア』の通過地点です。そのため、イタリアの伝説的ドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリの像も建立されています。   ▲ピエンツァの細い路地からひょっこり姿を現した初代『Panda(パンダ)』。それも先代『500』に起源をもつ空冷2気筒エンジンの“30”型です。   ▲サン・クイリコ・ドルチャに11世紀から建つ『被昇天のマリア教会』で。初代『Panda 4×4』は、その走破性と強靭さから今も人気のモデルです。   次のページ:【オルチャ渓谷のおすすめスポットをご紹介】 […]

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泉の魔法が効いたなら〜ロマーニに愛されてきたROMAのスポット特集〜

“イタリア各地をめぐるフィアット”がテーマの『フィアット オリジナルカレンダー 2023』。2ヶ月ごとに、フィアットの各モデルが6つの街をめぐるイラストが描かれています。3月と4月に描かれているのは、イタリアの首都『ROMA(ローマ)』。今回も、イタリア在住のコラムニスト・大矢アキオ氏にローマの魅力をたっぷり伺いました。 なお、『フィアット オリジナルカレンダー 2023』はダウンロードが可能。ダウンロード方法は、記事の最後に掲載しているので、ぜひチェックしてみてください!   ▲『フォロ・ロマーノ』は、2千年前の古代ローマの寺院&官庁街跡。いっぽう右側には1935年に完成した『ヴィットリオ・エマヌエレⅡ世記念堂』が。時空を超越した建築物が混在するのも、この街の魅力です。   観光スポット満載のイタリアの首都・ローマ 地域ごとに深い歴史・文化をもち、独特の魅力を放つ国イタリア。ゆえに目的地選びは悩むものです。そうしたなか、年間旅行客数が約3千万人と国内第1位を誇るのがローマです。そのローマで“トレヴィの泉”といえば、1960年の映画『甘い生活』でマルチェッロ・マストロヤンニとアニタ・エクバーグが水に入って戯れたシーンで有名です。「後ろ向きにコインを投げ入れると、ローマに帰って来ることができる」という伝説から、実際にやってみた方も多いのではないでしょうか。   ▲トレヴィの泉。現在の姿は18世紀前半に造られたバロック様式で、海神ネプチューンの像などが据えられています。   ただし、別の映画『ローマの休日』の名ロケシーンであるスペイン階段しかり、あまりの賑わいに圧倒されてしまった方も少なくないはず。そこで今回は、ある日トレヴィのおまじないが効いてローマを再訪するあなたのために、生粋のロマーニ(ローマっ子)や、首都という土地柄セレブリティたちに愛されてきた店を2つほどご紹介。いずれも当主は創業家の出身。知り合いが気軽に「コメ・スタイ(よう、元気か)」と声をかけて入ってくるのも、地元の店ならではの風景です。 そして、伝説の『Nuova 500(ヌォーヴァ チンクエチェント)』で巡るツアーをプロデュースしているローマ生まれの紳士も。彼がナビゲートするのは、イタリア人でも知らない場所ばかり。これを読めば「もうローマは知り尽くしたから」なんていう言葉は出てこないかも……。 早速、スポット紹介に移りたいところですが、その前にローマの街で見かけたフィアットたちの写真をお届けします。   ローマの街を走るフィアットたち ▲『パンテオン』の裏で。リストランテの前に佇む『500e(チンクエチェントイー)』。   ▲近年若者に人気のナイトスポットであるピニェート通りで。初代『Panda(パンダ)』がポップな雰囲気の壁面と似合っています。   ▲イタリア首相官邸である『キージ宮』近くで。ターヴォラ・カルダ(軽食堂)の前に路上駐車する『500X(チンクエチェントエックス)』。   ▲ローマが最も領土を拡大した時期の皇帝名にあやかった『トラヤヌスのフォルム』を見渡すエリアで。フィアットのマルチパーパスカー 二代目『Doblo(ドブロ)』。   ▲画家カラヴァッジョの連作がある『サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会』近くで。『500e』2台と脇を走り抜ける『Panda』。いつの時代もフィアットはローマの一風景です。   ▲夕刻、トラステヴェレ地区のリストランテで。アイキャッチ役を務めているのは第二次大戦後イタリアにおけるポピュラーカーである『500C』。『トポリーノC』というニックネームで親しまれています。   次のページ:【ローマのおすすめスポットをご紹介】 […]

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フィアットの故郷へようこそ!〜TORINOのとっておきスポット特集〜

フィアットファンに毎年大好評の『フィアット オリジナルカレンダー』。2023年のテーマは“フィアットとイタリアの街並み”です。2ヶ月ごとに、フィアットの各モデルが6つの街をめぐるイラストが描かれています。1月と2月に描かれているのは、フィアットの故郷『TORINO(トリノ)』。産業都市として、まさに近代イタリアのエンジンとなった街の“とっておき”スポットをお届けします。 なお、フィアット オリジナル 2023年カレンダーはダウンロードが可能。ダウンロード方法は、記事の最後に掲載しているので、ぜひチェックしてみてください!   ▲鉄道の玄関口であるポルタ・ヌオーヴァ駅付近を行く『500e(チンクエチェントイー)』。   フィアットの故郷“TORINO(トリノ)”とは? 北西部ピエモンテ州の州都であるトリノ。遠くアルプスの山々を見渡す街は、130平方kmに約84万人が住んでいます。ミラノが181平方km・約135万人ですから、ひとまわりコンパクトな街といえます。 11世紀にその歴史をさかのぼる名門・サヴォイア家は、ピエモンテだけでなく現在のフランスやスイスの一部も支配下に置いていました。そのため建築や方言には、フランスの影響がみられます。 やがて国家統一が果たされて1861年、ヴィットリオ・エマヌエレⅡ世を国王に据えたイタリア王国が誕生した際、トリノは3年にわたり首都機能の役割を担いました。   ▲トリノ旧市街を象徴する広場『ピアッツァ・サンカルロ』。周囲の館には、人々が冬の間、雨や雪を避けて歩けるようにポルティコ(屋根付き回廊)が設けられています。   20世紀のイタリアの近代化における原動力もトリノでした。ジョヴァンニ・アニェッリらが1899年にフィアットを興したのも、1927年に初めてラジオ局が開局したのもこの街。第二次大戦後は、多くの人々が南部から移り住んで工場で働き、復興を支えました。 その後、1988年から今日まで続く『ブックフェア』や2006年の冬季五輪などを通じて、国際イベント都市としても世界から注目されるようになりました。さらに2022年には『スマートシティ・インデックス』において、最もエコ・サステナブルなイタリア都市に輝きました。トリノは常にイタリアの未来を示し続けているのです。   ▲トリノはイタリア・ナンバーワンのエコ・サステナブル都市。EV(電気自動車)用充電ポールが充実していることもあり、『500e』もたびたび見かけます。   ▲裏道にたたずむ『500(チンクエチェント)』。碁盤の目のような道路は、サヴォイア家のカルロ・エマヌエーレ1世の号令で1620年に開始された都市計画の名残です。   ▲『500』は、イタリア屈指のカーシェアリングサービスの代表的車種としても有名です。   次のページ:【とっておきの!トリノのおすすめスポットをご紹介】 […]

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